世の中には、存命中からその生涯が教科書に記され、学校や通りの名前にその名が冠されるような人物がいます。ベトナムのラー・ヴァン・カウ大佐は、まさにそのような人物でした。94歳を迎えたこの英雄は、先日、1世紀近くに及ぶ人生の旅を終えました。かつての激しい戦火の傷跡を抱えたまま旅立ったカウ氏ですが、後世の人々に、勇気と愛国心という不滅の教訓を遺しました。

1948年にさかのぼりますと、当時、ベトナム北部カオバン省チュンカイン(現在のカオバン省ディンフォン村)は抗戦の熱気に包まれていました。少数民族タイ(Tay)族の少年、本名サム・フック・フオン(Sầm Phúc Hướng)氏は、当時わずか16歳でした。小柄な体ながらも、山よりも高い決意を秘めていたこの少年は、ある大胆な行動に出ました。入隊するため、年齢を2歳偽って入隊を志願したのです。

「ラー・ヴァン・カウ」という名は、その激動の日々から使われ始めました。そして2年後、温和な顔立ちをした18歳の青年は、1950年の国境作戦では、ドンケー拠点の歴史的な戦闘に身を投じることになります。そこは、生と死の境界線からひとつの伝説が生まれる地となりました。

1950年9月17日の夜、ドンケーの空は火薬の臭いで満ちていました。カウ氏が率いる爆破班は、敵のトーチカを破壊せよとの命令を受けました。目標まであとわずかの距離に迫ったとき、激しい銃撃を浴びました。1発の弾丸が若い兵士の頬を貫き、もう1発がその右腕を直撃しました。

暗闇の中、若い兵士の右腕は砕け、さらに悪いことには、12キログラムの爆薬を抱えて前進するのを妨げてしまいました。一瞬の躊躇もなく、カウ氏は戦友に向き直り、負傷した腕を切り落とすよう求めました。そして、残された左腕で爆薬をしっかりと抱え、塹壕を這い進み、敵のトーチカに接近して導火線を引き抜きました。天地を揺るがすような大爆発が起こり、敵の陣地は破壊されました。

生前、当時の功績について尋ねられるたびに、カウ氏はただ優しく微笑むだけでした。カウ氏は次のように語っていました。
(テープ)
「私たち兵士にとって、負傷することは当たり前であり、命を落とすことさえ珍しくありません。1950年の歴史的なドンケー作戦を振り返ると、ベトナムの部隊が国境作戦で戦い、勝利を収めたことを非常に誇りに思います。私自身は、その作戦で右腕の一部を失いましたが、戦友たちと共に戦って敵に勝利し、故郷と祖国の解放に貢献することができました。あれは私の兵士としての人生の中で、最も価値のある戦いでした」

その類まれなる勇気により、カウ氏は1952年、ホーチミン主席からベトナム全国で最初の7人のうちの1人として「人民武装勢力英雄」の称号を授与されました。

戦争が終わり、かつてドンケーで戦った兵士は、首都ハノイで日常生活に戻りました。カウ氏は人民軍政治総局、次いで軍事歴史博物館に勤務していました。1996年に退職した後も、祖国戦線の活動に携わり続けていました。

生前、英雄ラー・ヴァン・カウ氏の名前は、すでにハノイ、ハイフォン、ニンビン、そしてホーチミン市の通りや学校の名前に採用されていました。

伝説の兵士、ラー・ヴァン・カウ氏は母なる大地へと還り、かつてドンケーの戦場で共に戦った戦友たちのもとへ旅立ちました。しかし、彼の勇敢な精神は、祖国を守り抜いた民族の輝かしい歴史の1ページとして残り続け、今日の若い世代にインスピレーションを与え続けています。
(テープ)
「歴史の証人から直接話を聞くことは、私たちにとって、政治的・思想的な教育となる非常に有意義な活動です」
(テープ)
「ラー・ヴァン・カウ氏の模範的な手本は、私たちが仕事や勉強、ボランティア活動に全力で取り組み、励むための大きな原動力となっています。」

英雄ラー・ヴァン・カウ氏の鼓動は、2026年6月24日にその刻みを止めました。彼が生前語っていた「心臓が動いている限り、私は戦い続ける」という言葉の通り、カウ氏はその生涯を祖国と人民への奉仕に捧げ尽くしました。